志と骨の習俗

藤井正雄先生の著書より

骨仏の寺として近畿一帯にその名を知られるのは、浄土宗の名刹一心寺である。

一心寺は、寺伝によると、浄土宗の宗祖法然が当時、四天王寺の別当職にあった慈鎮の請によって文治元年(1185年)の春、古来荒陵とよばれていた四天王寺西門の現在地に「荒陵の新別所」と称される四間四面の草案を結び、観無量寿経にもとずく日想観を修したことに始まるとされる。一心寺の歴史的展開、納骨の実態の詳細は、割愛するが(藤井正雄「現代人の信仰構造」評論社昭和49年)骨仏の練造は明治20年のことである。

骨仏練造の動機は、一心寺には古来より霊場として出立した関係から、納髪・納骨の風習があり、施餓鬼法要のさいにもちこまれる白骨(分骨用の世俗に言う喉仏)は年々山をなすにいたり、納められた白骨は捨てることは出来ず、その処理を巡ってであった。52世陽譽真淳および当時院代をつとめたのちの53世諦譽聴典とが白骨を粉末状に砕き、布海苔を加えて仏像を造立する事を図ったのである。・・・

 

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