石川県 孝真寺のお骨仏

浄土真宗大谷派の孝真寺では、昭和5年以来、火葬場から廃骨を粉にしてセメントで固めてすでに釈迦如来立像、阿弥陀如来立像、観音菩薩立像の三体の仏像、聖徳太子立像、親鸞聖人座像、蓮如上人立像の3体を練造している

明治29年(1896)に金沢市で民間火葬場が生まれ、翌30年に市営に移管されていたが、火葬場からの廃骨は市内野田山に放置されて、廃骨は累々として山をなし、時には燃え残りの着物や肉片も混ざっていて、異様な光景であったといわれる。

孝真寺の骨仏練造は市井の明治19年生まれ松本松次郎の個人の発願によっている。

金沢市近辺では頭蓋骨、歯、喉仏を上骨といって墓地に埋め、またその一部を本山に納骨するが、 肢骨は墓や火葬場の松の木に49日まで藁を束ねた「ツト」に入れ、または͡菰に包んでつるし、精進明けで埋葬する、いわゆる「骨かけ習俗」の残存する地域である。

現在で「骨かけ習俗」は、石川県河北郡内灘町に昭和44年12月1日に火葬場が開設されて以来しだいに消滅しつつあり 肢骨 はサンマイ(火葬場)で処理されている

「骨かけ習俗」のみられないところでは 肢骨 は廃骨としてサンマイや墓地の一隅に捨てられるごとく埋められるのが一般的である

この様な習俗の土地柄において、習俗として捨てられた廃骨の山を松本氏はみすてておけず、大阪一心寺の骨仏練造を発願したのであった。

数度の挫折にもめげず、ついに昭和5年石川郡押野町(現金沢市)の仏師牧野師の手をかりて一丈三尺の釈迦如来像の練造に結果させたのである。

その当時、廃骨をふるいにかけて整理した骨の山は23山にもなり832貫に達したといわれる。

その当時在家であった松本氏の長男が僧侶となり、昭和46年に孝真院から孝真寺に昇格している。現在、孝真寺では、石川県納骨仏奉安所として多くの参詣者を集めているが、廃骨による骨仏としては代表的な例である。

(死と骨の習俗 藤井正雄著より紹介)

死と骨の習俗
藤井正雄著

昭和5年ごろから開始され、親鸞聖人・蓮如上人・釈迦・阿弥陀・聖徳太子・観音像がある。初期は、お骨を砕き製作していたが、今では骨仏の背中からお骨をいれ、地下に合葬する。
 石川県金沢市十一屋町16-8